「デリア俊子」って誰だ?
皆さんお久しぶりです。知探会ライターのフックブックローです。
お恥ずかしい話ながら、ブログの更新を完全に忘れていたので、何か記事を書こうと思い、1年ほどの時を経て再び筆を取らせて頂いた次第です。
といいつつ、今回のタイトルが「デリア俊子って誰だ?」と、いきなり読者を離してしまいそうなタイトルですが、良ければ最後まで見ていって下さい。
1.今回のテーマ デリア俊子
ということで、今回取り上げる人物は、ズバリ「デリア俊子」です。
恐らく「は?」「…え、誰そいつ?」
というリアクションで埋め尽くされていることでしょう…。
あ、まだブラウザバックしないで下さい!もう少しだけ、もう少しだけ!
この方の功績見るまでは待ってください…!!
2.軽い紹介&主な功績
デリア俊子は一体誰なのか、ずばりベテラン日系人市民ランナーです。
主な功績:1980年にスコットランドのグラスゴーで開催されたマラソン大会にて、50歳以上の女性として初めてサブスリーを記録したのを皮切りに、65歳以上の女性として初めて1マイル7分の壁を破った他、2004年には功績を称え「名誉の殿堂」に彼女の写真が飾られた。
普通に凄いですよね、しかしこの記録の裏には…。ということで彼女の生涯を見てみましょう。読むのが面倒な人はせめて上の情報と名前だけ覚えていってください…!!
3.幼少期、学生時代
デリア俊子は1930年に京都府で生まれました。津田塾大学を卒業後、フルブライト奨学生として、「教育に使うくらいなら新しい馬を買う」と抵抗する父親を振り切って渡米し、ニューヨークでろうあ者教育に従事しました。その後結婚しますが、失敗し、娘と帰国した際には「娘を他所にやってお前は日本人と再婚しろ」と両親から散々に言われます。
4.マラソンとの出会い
彼女がマラソンに目覚めるきっかけとなったのは1974年の出来事、当時高校生だった娘のエリカが4kmのレースに出ることになった際、エリカの足は速かったのですが、エリカの友人は足が遅く、ビリになるのが恥ずかしいから出てくれと懇願され、ビリ役を引き受けて出場したのが全ての始まりでした。走ってみると何と結果は3位!この時に貰ったトロフィーを後生大事にしていたと言います。
5.障害(になった?)
このままマラソンを続けようとした矢先、49歳の時に子宮癌が発覚します。その後手術を受け、しばらくはマラソンはできないであろう………否!手術から約3~4か月後、彼女は普通にボストンマラソンに出場しました。そして、翌年には上にも書いたように、50歳以上の女性として初めてサブ3を記録します。恐ろしい体力…。
6.その後
その後は精力的にマラソン大会に出場し続け、NYRR(New York Road Runners)ランナーオブザイヤーに30回ノミネート、27回受賞というトンデモ記録を残しました。実は子宮癌の後にも癌や動脈瘤を発症したといいますが、それでも走り続けたとのこと。もう凄すぎるのでここからはただただ功績を書くだけになってしまいますが、1980年にはパーヴォ・ヌルミ賞受賞、1997年には全米陸上競技連盟の殿堂入りを果たしました、その上2001年には1500mを6分47秒で走り、70歳女性の1500m世界記録を樹立しました。まさに生涯現役といえるその功績から「市民マラソンの母」「市民ランナーの母」と呼ばれています。1981年にはテレビ朝日から「走れ!デリア俊子 ガンに勝った51歳のランナー」という彼女をモデルにしたドラマが公開されました。
ということで「デリア俊子」を紹介してみましたが、いかがでしたでしょうか。少しでも「デリア俊子」に興味を持っていただけたなら幸いです。